今年の目標で分かりやすい絵を描くことを標榜した。そこで、わかりやすいってどういうことだろうかと考えてみた。
(今週の一枚)ナナチの心(途中)
絵が少しでも受けるように描き方や考え方を変えようと思うんだけど、果たしてどういうものにすればいいのかと悩む。
「う~ん」と唸っていてもしょうがないので、いくつかの項目に分けて考えをまとめてみようと思う。
親しみのある絵柄
人間、何かを理解しようとする際には大体記憶がものをいう。「これはニンジンです」とジャガイモを見せられても、それがジャガイモと知っている人は「ジャガイモだよ」と答える。つまり、自分の記憶が前提となって見えるものを認識して判断する。
これは絵についてもいえると思う。「かわいい女の子」というカテゴリーを見ると時代ごとに絵柄の流行りは違うとしてもその可愛さは目のキラキラやつるっとした肌、子供のようなしぐさみたいな共通認識があるのではないかと思う。
これは日本特有のもの…というか、アニメ・マンガに親しんだ人達特有のものなのだろう。そういった文化を持たない人にそういった絵を見せても違和感を持たれたり、場合によっては拒絶されてしまう。
つまり、「かわいい女の子」という認識はまず「これは人間」→「これは女の子」→「これがかわいい女の子」という絵や漫画に対しての学習が前提としてあり、それを元に何がかわいいかを判断できる。
では、何がかわいい女の子の前提になるかというと、それ以前にアニメ漫画のヒラメ顔を「人間の顔」として認識し、その顔の中で一番美しいものがかわいい顔になるのだろう。
こういった顔の認識は人、国や文化によって異なるが、共通言語としての漫画があることで共通認識が生まれ、その前提によって可愛さが決定しているとみることができる。
ニッペルフの絵は「お上手ですね」とほめていただけることはあるが、「可愛いですね」とか「興奮します」と言われることはない。これは上に書いたような共通認識やお約束から外れた絵柄であるため、感情に訴えるキャラクターづくりができなかったのだろうと思う。
つまり、絵は極端な独自性や個性を持つ場合以外では、みんなが知っている顔、容易に認識できる顔ではないと、それによって感情を動かされないのではないかと考えられる。そのため、わかりにくい絵になるのではないかと思う。
よく見ないでよくわかる
SNSなんかで流れてくる絵はとにかく明るいものが多い。明度も彩度も高い。なんでかなぁとよく見ると、多くの絵がペタっとしている。これは描き方が原因でもあるのだろう。お絵かき系の作品の多くはまず作画、線画を描く。その線画の隙間を埋めるように色を塗ったり影をつけたりする。こういったものを見る際、見方があって、特にキャラを認識しようとすると境界を作っている線(漫画の場合は枠)をまず理解して、それから瞳を見る。
そのため、カラーの絵では着色によって線画の境界がぼけてしまうことがあるので、できるだけ色の差がないように色を挿さないと作品そのものが崩壊してしまうことになる。
何が言いたいかというと、ほとんどの人はアニメや漫画の絵を見る際、キャラや背景をちゃんと見ていない。ある部分・境界をまず見ている。そしてその瞬時の判断によって物の良し悪しを判断して言うように見受けられる。
その状態を維持したまま強いインパクトを得ようと思うと、あまり色の間に差がないが、全体的に同じような強さの色がばっと目に飛び込むようにして作品作りをすると「良い絵」となるのではないかと思う。
ニッペルフの絵は線画がない。明確な境界がない絵を目指している。またキャラクターやオブジェクトの中での色相の差が比較的強い。これによって統一感のある雰囲気や立体感を強く押し出すことに成功しているが、一方で、一般的な認識の前提となる強い境界線を得ることができなくなっている。
そのため、「ちょっと遠い絵」、わかりにくい絵になっているのだろう。
親しみは知っていることから
多くの作品は真似から始まる。パクリから自分の絵柄を模索してゆくが、気が付いたらそれが自分の描き方や筆使いを変えることで個性が生まれてくるのだろう。何かを見て、何かを頭の中で浮かべて、それを描く。まさにパーセプトロンである。
そのため、ある文化圏や界隈ではなんとなく似ている作画があふれ、それが集まって一つの文化になるだろう。日本の漫画とアメリカのアメコミは同じ漫画というジャンルなのに出てくる絵柄もコマの使い方も全く違うのはその世界で見ているものが違うから出てくるものが違うのだろう。
見る人にとってもこれは同じことが言える。誰が描いたかわからないが綺麗な絵より、知っている作家や知っている作品の絵を見ている方が見やすい。そして、多くの人は何か新規の素敵なものを見つけようと努力するよりも、知っているものにちょっとアクセントの付いたものを探す傾向がある。
例えば、いつも家に帰る道でまっすぐ帰るのに飽きると、なんとなく道を変えて家に帰ることがあるだろう。しかし、全く違う方向に向かって足を進めることもないだろうし、何倍も時間をかけて家に帰ることはないだろう。
つまり、我々は新奇性を求めつつも、自分の知っているものや自分が理解できるものを前提に行動をする。
ニッペルフは二次創作をあまりしてこなかった。絵柄も今はやりの絵とはだいぶ違う。見てくれる人にとってこれはちょっとストレスだし、純粋に絵を見に来た人があまりいないので、やはり見たい人に見たいものを見せられていない。そのため、わかりにくいのだろう。
じゃあどうするか
ニッペルフは知らない描き方、似せない絵柄、客によらない作品性になっている。よく言えば、独特の作品性のある素敵な絵だが、本当に未知かと言えばそうでもない。ぶっ飛んでいる作家から見ると何とも中途半端な絵柄と感性である。
また、キャラだろうが背景だろうが建物だろうが自然だろうが、なんとなく作れる。しかし、尖ったものではなくせいぜい模写レベルだ。
これを「わかりやすい絵」にするにはどうしたらいいか…
いくつかの点を考えて書き出していったが、一番手っ取り早いのは「真似をする」ということだろう。ほぼ自分なりの描き方ができているので、描き方をパクるのは無理でもキャラがどういう意図で作られたり、デザインがどうなっているかを拝見しながら描くということが大切なんだろうと思う。まぁ、何年もやっていて今更かよっ!という感じだけど、まぁ手遅れではないと思う。
同時にやるべきことは見る人がどういうものを理解できるのかを知ることだろう。もっともらしいことをグタグタ書いたが、人によって知識の幅は違うし、理解の幅もずれる。集団のどこが真ん中でどのくらいの高さになるかを知らなければ誰にも理解できないものを作ることになる。わかりやすく言えば、大学生で分かるのか、高校生で分かるのか、小学1年生で分かるのか…イメージする年齢で区別すればいいかと思う。
今までの絵を見ると、なんとなく高校生向けに描いていたので、小学生高学年くらいに向けて描くことができればいいのかなぁなんてSNSを見て思った。
これは誰しも何かを判断する際は初めの感情や心の奥にある動物的意識がまず先に出るので、わかりやすさを感覚的な認識だとすると、それはより幼いものの方がそれに寄り添うからだ。
難しい言葉や複雑な表現はあくまで中心となる認識があってこそだし、その認識はいつも思っていることや知っている毎日が前提で生まれるのかもしれない。
まとめ
自由に作品を作ることは素晴らしい。もっと知ってもらえる・わかりやすいものを描くために相手がわかるものを作ろう。
小学生でも理解できる感情、中学生でも知っている知識で像をイメージすればいいのではないかと思う。
終わりに
まぁ今週は一枚も描ききれなかったから微妙なんだけど、なんとなく方向性はわかってきたような気がする。
…とは言いつつ、上手な絵描きへの道はまだ長い(^ω^)
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