いい絵を見ると感動するけど、それをどう見るかで評価は分かれる。では、逆にどう描けば良く見えるのだろうか? 画面の見方・視線を追って素人なりに考えてみた。
視線の現状
街を歩いて、駅を抜け電車に乗って路地を歩く。そういう風景を見ながら気づくことは多くの人がスマフォの画面を見て、頭を垂らしている姿である。
風紀の乱れが~とか、交通安全が~なんてブー垂れるジジババがいるが、ここまで行くとこれは一つの自然現象なのだから、いかにこれに対応すべきかを考えたほうがいいと思う。
絵や映像作品にしても同じことが言えて、かつて大画面テレビや巨大ディスプレイPCで見ていたものが今では小さなタブレットの中のより小さなデジタルデータを観察するようになっている。
美術館に行っても、作品を無許可でスマフォで写真を撮る人や出入り口で感想をSNSにアップする人がいて、本当に作品を見に来ているのか疑問な人もたくさんいる。
美術の正しい見方が~とか、マナーが~とブー垂れる紳士淑女もいるが、やはりこれも新しいもの新しい形で楽しむスタイルなんだろう。
スマフォやタブレットを片手におしゃれなカフェでティーをドリンクしながら、ワールドなトピックをザッピングしてノマドなワークをしているのがアートな人達の理想なんだろう。
そういったスタイルへの欲求の良し悪しは別にして、我々の視野、我々の世界はこの小さな箱に吸い込まれているということを意識して物を考えないといけないと思う。
デジタルデザイン的な見方
作る側で考えると、デジタルの画面は画素数を基本として考えるのが当たり前であるが、PCの大画面であろうと小型スマフォの画面であろうと同じ画素数の場合がある。そのため、一概に画素数をもって詳細な画像と考えることができないので、物理的な画面の大きさを見て絵の価値を考えると、やはり大きい画面と小さい画面で栄える見せ方は違ってくる。
現状のWebページのデザインは画面の大きさどちらかに特化した作り方でなく、あらゆる画面サイズに対応したUIや画面のグリッドを推奨する方向性になってきているので、方向性としては「どう見てもわかりやすい」デザインになるのだろう。ただ現実では、悪貨は良貨を駆逐するではないが、こういうユニデザインになると、より表示しにくい画面、つまりスマフォベースにデザインを考え、その表示を大画面にも対応できるようにする方向になると思う。
この方向性はデザインの中に内包される画像、絵やデジタルアートも同じようになるはずだと思う。つまり、どの画面で見てもパッと見て意味を理解できる「わかりやすい絵」が記事やWebを彩るためには必要と言うことになる。
みんなが見たいもの
では、実際にそういったわかりやすいだけ、一瞬で状態を理解できる、いわば象形文字や漢字のようなものだけが珍重されるか…と言うとそうではないようだ。
むしろ3Dデジタル画像になると、より高画質により詳細な作品作りが必要とされており、そういった高スペックの作品を作ることができる機械と職人の需要が高まっている。当然、そういった意図を察して政府的にも事業、補助金を付けて一応産業支援しようという試みも徐々に出てきている。
わかりやすく言うと、映画「君の名は」はその映像美の質の高さが有名である一方で、その内容に関しては大して評価されなかったが、売り上げ、つまり一般の評価は同じようなアニメ・映像作品より非常に高かった。
つまり、多くの人が求めているものは少なくとも圧倒するような美しい映像ということになる。
また、それの需要に伴って、8Kテレビであるとか、VRであるとか、高画素、高品質な情報処理を必要とする映像とそれを高速で送信する5G規格の通信手法が開発されつつある。
齟齬の意味
さて、おかしなことに気づく。一方でとても見やすくて軽い画像を推奨していて、もう一方で高画質で重たい画像を必要としているのである。いっぺんにどっちも見ることはできないし、もしかしたらどちらかが間違っているのかもしれない。
ここからは主観になってしまうのだが、おそらくこれらが示していることは、視点の二極化なんじゃないかと思う。
SNSや情報サイトを見ていると、表示画像はほんの一瞬で流れてしまう。こういった情報の羅列が大量に流れる際、何かの記事やつぶやきを繋ぎ止める「釣り針」としての役割が絵であり画像であると思う。
例えば、猫の話をしていてもよくわからないが、その際の猫の映像があると目を留めてしまう。
この「パッと見る」画像で眼、手を止めて本筋の情報媒体を覗いてもらうためには、画面に合った大きさや分かりやすさが必要とされ、走行中の電車の中から見る広告のような価値を持つと思う。
一方で、その本筋の情報が例えばゲームであった場合、何時間、場合によると何百時間とその映像を長時間見続けることになるのだから、頭の中にしっかりと記憶に残ったり、その作品の評価を決めるため「ジッと見る」画像が必要とされるのだろう。
以前の記事では純粋にSNSだけでよく見える方法に注目したけれども、もう一歩進んで、パッとわかる部分とジッとみる部分の作りが必要となるのかもしれない。
サムネイルと絵の中心
この視点の二極化が正しいとして、果たしてどういう絵を描けばパッと見て、ジッと見てもらえるんだろうか?
明確なことは言えないんだけれど、少なくともわかることは絵に非常にわかりやすい「核」がないといけないんだと思う。
逆に絵全体を眼を動かして楽しむような作品は評価を得にくいと思う。
例えとしては、レオナルドダヴィンチが描く「最後の晩餐」のような聖書の一節を切り取った作品よりも、エドヴァルド・ムンクの「叫び」のような強力な「真ん中」が必要になるのだろう。
キャラ絵を描いている方は何を当たり前なことを…と思うかもしれないが、風景画やコンセプトアートなんかは絵全体のイメージで作品を作っているので(自分にはなかなか作れないけど)、ここだけ見てと言う収束点がないものが多い。そのため、その作品の先に伝えたい言葉があっても評価されない場合があると思う。
いわゆるじっと見る専用の絵はいくら綺麗でも評価されにくい傾向にある。
ではどうすればいいかと考えると、一案として、絵を作り始める際に、サムネイル部分を先に考えたり、ひときわアップになるものを描いておけばいいのではないだろうか?
絵の題や主人公を縛ることになるから一長一短だと思うのだけれど、「釣り針」を意識するならやはりちょっとした工夫したり、頭の隅においてもいいと思う。
一番見せたいものを明るくしたり、色を変えるのは核を作るのには常套手段だけど、描いていると意外と意識が行かないことがあるので、サムネ作るということで振り返り、最後の一味にどうであろうか。
終わりに
すごい作品や有名な人には当てはまらない考察になったけど、ちょっとひとの目を引きたい人にはいい方法なんじゃないかと思う。
また、明確に見てもらいたい層や目的があるなら、また別の考え方があると思うが、少なくともハイローミックス的な視点はこれからも広がると思う。
・・・絵自体の質を上げることが自分には必要だなぁと思いつつ楽な方法をついつい模索してしまう今日この頃でした(^ω^)
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