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1週間に1記事を目標にして、考えたことや描いた絵について書いてます。

積み重なって変化するもの

 また新年度が始まり、毛色の違う人たちが町を闊歩するようになった。
 真新しい背広や制服、それをまとう人たちのまだ効率化されていない動きを見ると
人工的に作ったカレンダー上のルールの元で期をまたいだとしても、着実に変化が起こっているんだなぁと実感できる。

 花を見て春を感じ、暖かくなり新しい命の息吹を知ることも生き物として当たり前の感性なのかもしれないが、駅のホームや信号待ちでふと立ち止まり、目線を少し上に向けることで、ちょっとした人間の群れのかすかな変化を見つけることも正しい感性なのかもしれないと思った。
 以前であれば変化に気づいてもただそれを認識するだけであったので、自分にもちょっとした変化があるのかもしれない。

 

 

【オリジナル】「近所の砂漠の一コマ(クイズ)」イラスト/ニッペルフ [pixiv]

↑年度末を必死にもがいるイメージ

 筆不精でめんどくさがりの自分がSNSに参加するためにいくつかのルールを立て、なんとかそれを維持できているのはやっている本人としても驚きであるが、まぁそこまで苦痛ではないしある程度楽しんでやっているからできることなのかもしれない。
 そんな中、なんとか週に1枚は頭の中に浮かんだイメージを絵にして投稿している。
 大した実力や集客性があるというわけでもなく、時間や労力をネットコミュニケーションに使っているわけではないのにたくさんの人がそれを閲覧したり、何らかのアクションをしていただけるということは純粋に感謝するとともに、いまだに驚きが心を占める。


 もちろん金を使って宣伝したり、エロや有名なアイコンを使って物を作れはもっと多くの人にアピールできるだろうし、時間をかけ、他のSNSサイトを有効に利用すればもっと効率の良い方法が模索できると思う。
 「悪名は無名に勝る」とはよくいったもので、社会や商売においてどんな素晴らしいものであろうと「誰も知らない」ということは悪であり無価値なゴミであると認識されるのだろう。
 情報流通の実態を感覚的に知りたいという興味があり、マーケットとしての価値を推し量るためにも中立的な立場で自分を置くことが最も有効な方法であるし、これがこれからの様々な思想や商品の価値基準を左右する方法であるのは議論をまたがないことは明らかなので、興味や儲けの対象がネットに向いている自分としては当然の行動なのかもしれない。

 ただ毎週描いている絵はそんなことを無視して頭の中にふと浮かんだイメージを絵として落とし込んでいるだけのものなので、これを見て果たして誰が喜ぶのだろうと思いながら投稿しそれを評価いただけるということはとても不思議な気分になる。
 もちろん、ただイメージを実体化しただけでは意味不明な変態行為なのだから、前回書いたようにある程度他人の目を意識しながら形にしていくことにしている。そのため、意味不明な前衛アートにはなっていないだろうと思っているが、その本質はやはり自分の頭の中の風景なので表現としては理解されない場合を予測しつつ投稿している自分がいる。

 そういった視点で他者の作品を観覧すると非常に面白い。
 あぁ小学生だなと思うものから、なんだ天才か?と思うまで様々な書き方、表現方法が存在する。空き時間を見て10分程度で流してみていると、おぉ!と思うものに出会えるのはフリーマーケットでフラフラと散歩しているような不思議な高揚感が味わえるのはかなりお得な物であろう。
 ただ、こういったザッピングするにはある程度の知識やコツが必要であり、なんとなくページをめくってもそれにたどり着けない。Pixiv内においてはそのほとんどが2次絵になっていて、ランキングに至ってはもうお腹一杯!になる感じで画一化が進んでいる。このサイトを訪れる多くのお客様が欲しい、見たいと思っているものが少しずつ一つに絞られていく様子はちょっと異様であるが、流行といってしまえばそれまでなのかもしれない。

 では、この画一化、集中化は誤ったことであり、Pixivが功利的に意図した結果かといえばそうではないと思う。この現象はネット空間のすべての領域で日々進みつつあるようである。多くの人が望むものはそれだけ商品価値が上がり、それに対して作り出して利益を得ようとするものが現れ需要と供給が非常に速いスピードで形成されている。そのため、需要が落ち着くと一瞬にして供給もなくなることはネットの恐ろしさかもしれない。
 ここで分類や仕分けをしてみると、この情報の増減にはその実あまり情報自体が増えていないように感じることがある。これは検索方法やネットでのはやりすたりを調べていて感じたことである。Googleなどに代表される検索エンジンを使って不必要な情報をかき分け、必要とするものにたどり着く方法はさまざまであると思う。しかし、単にキーワードを入れた場合まるでハンコで押したような同じ文言が並ぶサイトが数十も並ぶ場合がある。これは一見情報が氾濫し多種多様な情報や見識があふれているように見えるが、その情報自体がコピーや類似品、つまりほとんど同じようなもので実際の情報自体がほとんどない場合がよく見られる。この現象はここ数年で加速度的に広がっていると思う。
本当であればA、B、C、D・・・という情報の多様性が確保されて初めて価値のあるネット情報空間が成立しているはずなのに、
実際はA、A、A'、A#のように容量だけ増やして中身がほとんど同じような状態である。

つまり情報の「量」は爆発的に増えているが、「質」はほとんど変わらず実態としての情報はむしろ見えにくくなり薄まってしまっていることになる。

これは果たして情報流通として価値があるものなのだろうか?

マーケティング戦略を考えるうえで評価すべき対象なんだろうか?
もっと言えばビックデータなどと言ってこういった量を売り物にしている商売は意味があるのか?
と考えると量と質の成分の異なるベクトルの積だけでは図れない、加えるべきいくつかの因子が傾向分析には必要だと思った。


 こういったちょっと皮肉な分析を趣味でしている心の横で、ちょっとした変化こそ人の変化の本質じゃないか?と思う自分がいる。進化論の中立説ではないが、本質の変化は小さな差異の積み重ねなのかもしれない。だからこそこのようなちょっとした変化の分析こそ最も価値のある戦略分析じゃないかと思うことがある。

 

絵を描いているとその感性が少しずつ変化することを知った。
その変化が物の見方にも変化を及ぼすことも知った。
その主観が観察対象の価値自体を変化させるのかもしれない。
・・・と思いつつ、今週は何をイメージしようかと悩む。

 

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