もうすぐ衆議院議員選挙になるそうだ。自民党としては勝てるギリギリの線で勝負に出てきて面白そうだが、民主党(あえてこの名前)は支持団体ごと引き抜かれるだろうし、維新は大阪以外ではたいして勝てないだろう。
小池新党は資金と人が集まるか次第だし、ある程度の人には政治能力がないことがばれているので、大勝はしないのかな?と思う。共産党や公明党はまぁ・・・
結果が何となくわかってつまらないので、議員の状態を比較して、本来必要とされるの議員の資質を考えてみた。
【オリジナル】「さぁ、行こう」イラスト/ニッペルフ [pixiv]
↑どこに行くのだろう?
・具体例を比べてみる
議員の不倫であるとか道徳的な不祥事で、その地位を追われることが最近盛んになっているが、その能力や業績については一向に見向きされない。
こちらの利益になるのなら、元犯罪者でも変質者でも議員に誰がなっても一向にかまわないが、聖人君主でもこちらの不利益になるならさっさとやめてもらいたいと思っている側としては、こういった利害を考えない感情的報道やアベキライ感満載な情報はどうにかしてほしい。
しかし、ないものはないので、実例を挙げて比べてみる。
分かりやすくお茶の間の話題?になった山尾志桜里議員を挙げると、自民党の山下貴司議員が出身大学や元職からの比較として妥当ではないかと思う。
山尾氏に関してはメディア出演を含め、与党の矛盾を突こうとする法務、予算委員会での激しい答弁が特徴的で、キャッチーな「日本死ね」を使った問題提起や秘書の公金詐取など話題が豊富な方だと思う。
一方で、地道な法案提出などの業績はなく、党よりも支持団体の自動車総連などへの協力が目立ち、党人というより組織内議員のような行動も多い。
山下氏に関してはメディアへの露出はそこまで多くなく、法務委員会での答弁に立つ機会もあるが与党側ということもあり、いい意味でも悪い意味でも目立った発言は見られない。
一方で、議員の本来任務である議員立法を多く成立させたことからも、党内部から発言力を増そうとしている感があり、単純な知名度よりも実力で地盤を固めようとしているように見える。
もちろん、山下氏の前活動経験が非常に豊富で「本当に実務能力のある人」であることと、山尾氏の基礎的な経験だけで経歴が変わる「タイトルホルダー」的という性質を単純に比較するのもどうかと思うが、ここでは議員の価値について考えているので、ぱっと見で前歴で比較しやすい両者を並べてみた。
おそらく、両者とも自分大好きな目立ちがたがり屋のめんどくさい人であろう(個人的感想)が、目立たないと消える国会議員としては基本的に高い能力を持つ方たちだろうとし、分野ごとでは華があると思った。
・メディアに対する構え
両者の比較ではっきり言ってしまえば、山尾氏の肩書に対してその能力は著しく低い。しかし、山下氏の業績に対してその知名度は著しく低い。バランスが悪い。
その状態で、議員としての業績は無視され、レッテルや思想によってメディア露出と知名度が決定されていることになる。
これは悪いことなのだ!という人がいるかもしれないが、それは明らかに間違いだと思う。議員になったのだから彼らの最終目的の地位は総理大臣だろう。そして、小選挙区という性質上、いかに名前を認知してもらうかが議員生命とその後を決める。そのため、頭の悪そうな答弁も役者になって演じなければならないし、頭の痛くなりそうな法案にも目を通さなければならない。
バランスよく能力を上げなくては総理大臣の椅子は手に入らず、長く議員にいても結果として「元~副大臣」とか「元~部会会長」で引退することになるのだろう。
では、その椅子に近づくためにはどうすればいいのだろう?
そこにはメディアの役割と関係性が大きくかかわると思う。
山尾氏は自分の関係ある分野であるとか支援団体の関係があれば番組に出て対応し、その意見を述べている。また、国会での写真や映像でのスポットも多く、姿だけが目に触れることが多かった。しかし、これは山尾氏に対して思想的に近い集団が放送関係にいたので出演が増えただけで、自分から何か考えて戦略的に動いている形跡は見られない。むしろ、その無頓着があだになって、最終的にワイドショーのおもちゃにされたように見える。
またネット活用でもブログの「日本死ね」の待機児童問題の本質に迫ることにならず、単なる騒がしに終わってしまい、知名度向上だけでなく情報がよくわからない人には悪印象を残してしまった。
では、山下氏がメディアに対して慎重に戦術を練っているかというと、それも疑問で、単純にお声がかからないだけに見える。
また、SNSやネットメディアを利用するかというとそれも微妙である。例えば、Facebookで発言しているが、その情報がWikipediaでは反映しておらず、大きな売りの一つである法案成立数が6のままだったりする(25/9/2017時点)。こういった雑な点がそこいらに見られ、ちゃんとまとめて、その都度外部のどこかに売り込まないのがもったいないと思った。
ネットを触っている側とすると、デマのコントロールや情報の正確性、発信範囲も含めて評価してしまうので、現状は労力の割に成果がないと思う。
例の両者はメディア露出度に関しては大きな差があるが、その性質は共に極めて内向的であると思う。
議員本人側からの意図があっての情報発信がうまくいかずに、彼らの情報がほぼ限られた層にしか伝わらずに、そのカテゴリーを超えて議論を巻き起こすまでにはいかず、こぼれ出る断片部分だけがばらまかれている。
つまり、両氏のうわっぺりの考えや履歴は残るが、何を志向して、どういった事をしたいか、したかったかが伝わらない。
党による戦略や人事もあるだろうが、なんとなく誰かに任せていて「知らない人」に「見てほしい」という熱意を感じない。
これは両氏に限ったことではなく、一部の例外を除いてほぼすべての議員に当てはまると思う。
・集団の定義の変容
では、実務、演出、人間関係、支援作り、情報発信などなど、果たしてこれらのいくつもあるだろう上昇させたいパラメータをたった一人の人間で担うことができるのか?と言えば、当然不可能である。
頭が良くても、横柄になるだろう。演説がうまくても専門知識はないだろう。1人の能力が高くとも人をまとめることはできないだろう。誰にでも欠点はあるし、長所はある。 それを補うから社会を作るのであって、本物の天才がいれば議員などいらない。
数十年前、中選挙区時代でネットやSNSが存在せずに、派閥政治が機能していれば、一芸に秀でた議員であれば、その他の秀でていない点に関しては政党が補助してくれたのかもしれない。
また、小沢一郎氏であれば田中角栄のお妾さんやそれを支える利益集団がいることで組織として運動してきたのが、今までの日本政治であり、議員(集団)資質だと思う。
しかし、その旧来の議員システムが選挙制度の変化で老朽化し、変化した現実の経済や外交から求められる議員の資質の変化についていけていないように見える。
本来はそういった対応は日本の場合、政党がコントロールするべきだが、政党自体もあまり変化しておらず、自民党としてもネットサポーターズは麻生政権大敗で大失敗だったし、民主党もテレビ・新聞を使った扇動で政権を取ったが、その後の悪政がネットに永遠に記録されるため消すことのできないキズになってしまった。
他党も費用対効果の面でネガティブな面を見て、逃げているのが現状であろう。
つまり、網の目が時間とともに大きくなってゆくざるのような政党では大きな議員(集団)は多少ゆすっても掴めるが、小粒な議員はみんなざるから落ちてしまう。
こういった変化に柔軟に対応しているのが、小泉氏や安倍総理だろうが、党自体が変容するまでに至っていないし、その過程で小粒だったり一芸議員はその都度消えるのだろう。
ではどうすべきかというと、一案としては議員の能力を補助する要員をそれぞれ雇えばいいのではないだろうか。
ネットであれば、それ専門の解析員、党との交渉であれば連絡員、政策を作るのであれば政務員など、議員個人が小さな会社を作ればいい。
今まで一部機能のみを持っていた議員個人集団が、全機能を持つ小さな集団になって変容するということである。議員グループや派閥ではなく、個人が丸抱えする形になるが、ざるの目が大きいのでそうならなければならないと思う。
しかし、当然資金的にも厳しく、効率も悪く人が集まるかもわからないので、実現は難しいと言わざるを得ない。
ではなぜこんなことを夢想するかというと、安倍総理とその周辺から見え隠れする、国会軽視や党運営への押し付けは、彼とその周辺の新しい個人組織再編の結果に生まれた力と考えれば、それに対抗するためには小さくとも同じだけの能力を持つ集団でなければ対応できないと思うからである。
安易に、安倍氏の腰巾着としてテレビに出ればそれはそれでいい思いができるだろうが、それで終わりで、本来の議員資質の醸成にはならないし、安倍氏が辞めれば腰ぎんちゃくごとご退場である。
以上から、これから求められるであろう議員はコアとなる人員の組織性の強化した集団であり、議員同士のつながりや互助だけでなく、議員個人がいかに全方位の人材、特に情報発信に強い人をそろえるかがネックとなるし、その上で、実務能力と人間性が問われるのだろうと思う。
・求められる議員の資質
誰しも一芸を持っているし、その芸の上達を目指すことは素晴らしいが、その他がおろそかになる。しかし、有権者は全ての芸をまんべんなく持つ偶像を欲しているように見える。 悪く言えば、多くの人が政治なんかに興味がなく、昨日よりちょっとだけいい気分になりたいと選挙を見るし、自分に直接的な利害がないと思っている。
だから、美しい身姿や綺麗ごとを欲するが、それがパチものであると分かると棒でぶん殴って壊そうとする。
我々にとって、政治家や国政はあまりにも遠いし、興味がない。しかし、誰がなっても同じと適当に投票したら、民主党悪政である。
そんな中で求めれるものを満たすのは難しい。人間一人に不可能なことを議員に求めているともいえる。だから、議員個人個人が各専門家を集めるという方法で自分自身を守って、自分から攻めなければならない。党の結束はそのまま維持したが、安倍氏は個人集団で強くなったと思う。
そこには民主主義もないし、正当性がないようにも見えるが、それは安倍氏だけが新規集団を作ったからであって、議員全員が小さくとも別の個人集団を作ればその各集団を選ぶことで民主主義は達成されると思う。報道や情報の攻撃性や悪意を見ていると、そんな感じがしてならない。
こういったアメリカの議員的になるのが正しいのかわからないが、議員個人に我々がそれを求めている以上、それこそが国会議員の条件や資質ではないかと思う。
本当の何でもできる天才はどこかにいるかもしれないが、政治界にいないのかもしれない。
希少だからこそ天才であり、凡人はそれを補うからこそ社会なんじゃないかと思うが、政治家の定義にはそれが全く当てはまらないのが面白い。
ま、ないものねだりなんだろう。
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