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集合知と情報集積戦略の価値 その2

 

こちらはその2になります。

 

よろしければ、その1からご覧になっていただければ幸いです。

 

 その1ではネット情報の現状について、日本語情報の価値や強度がどの程度意味を持つかを考えてみました。

 

その前提からその2ではその情報処理の可能性について考えてみました。

 

・ネットの集合知はあり得るのか?

 

 この「集合知」という言葉、つまり、三人寄れば文殊の知恵の多人数ネット版は機能するかと考えると、情報を得ようとするメンバーがその情報に対してある程度の知識を持っており、良識をもってその情報を出し合う前提があれば成立すると思う。一方、その情報に対して知識がないメンバーが過半を超える場合や何らかの意図を持つ場合は失敗するだろう。

 

 この「情報に対しての知識」が曲者で、メンバーがある情報「A」の識者であっても、別の情報「B」では無知に成りえる。例えば、理系の国立大学の教授であっても、一般教養や文系に対しての知識がなければ、文系集合知の阻害要因にしかならない。
また、一芸に優れた人であっても、その思考が前提の知識に邪魔をされて、往々にして情報共有に至らないことが多い。
 つまり、情報共有やその情報を練るためにはものすごく人を選び、限られた輪の中でしか情報が循環しないし、外に出すと発散して無意味化する。

 これをSNSテキストサイトに当てはめてみると、ほとんどの人がある専門情報に対して、無知になってしまう。そのため、数人の扇動者や自称有識者による「最初の情報」がメンバーにインプットされるとある方向性が決定され、後発で本当の専門家が発言しても、その検証や訂正はなされず、誤ったまま情報が一般化してしまうことがほとんどである。

 

 これが決定的に明らかになったのが、地震からの福島原発事故だろう。
 当時のログをあさると、莫大なデマ情報とそれに煽られて、正体をさらすネット言論人が大量におり、本物の専門家が発言をしたとしてもその正しい考察を罵倒したり、発狂する「市民」が非常に多くいたことが分かる。

この原因は2点あって、
民主党政府が機能不全に陥り、情報を隠蔽、もしくはどれが正しいか判断できなかった
・ネットで情報源と言われた別分野の専門家、活動家がその発信力でデマをバラまき続けた

ことになる。

 結局、○○さんは信用できるという人のクレジットを見て、その情報を信じても意味がないことが分かり、日本にある唯一の正しい情報源である公共が機能不全になると多くの日本人が発狂するというのが、日本のSNSで明らかになってしまった。
 つまり、多くの日本人は、専門家であってもよくわからないことに対してはその情報を反芻することなく、最初のそれに強い影響を受けてしまう生まれたてのヒヨコのような人種ということになる。

 もちろん、アメリカ人であっても、中国人であってもこの傾向は当然あるが、当時を振り返るとSNSに触れる日本人でこの傾向がとても強いと感じた。

 この点からネットではある小さな専門クラスター以外では「集合知」はほとんど機能していないことがわかる。

 


・ネットの情報は無価値なのだろうか

 

 原発問題は安倍政権による優秀なコントロールで、情報が整理統制された。これには功罪あるのだろうが、ここでは触れない。
 発狂していた人たちも意識を取り戻して、いつものブツブツと独り言を始めて、日常をまた繰り返すが、その発言力もその人自体の価値も大きく減衰して、「観察対象」に落ちる人もいる。
 ただ、そういった発狂を経たとしても、その人に専門性があればその分野ではしっかりとした価値を持ち続けるのだろうと思う。 そのため、元発狂者の人間性は無価値でも、その専門情報にはやはり価値はある。
 こういった大きな事象と有名人物の失敗を見るにつけ、ネットでの情報の本質的価値とは一体何であろうかと考えると、少なくとも1つの事実にはたどり着く。

 

大量の過去が残る

 

これがネット情報の本来の価値ではないだろうか。
 「いま」ネット空間に溢れているテキスト情報のほとんどは同じもの、画一的であったり、感情やそれを扇動するデマである。そして、そのほとんどは死蔵されて消えていくのだろうが、とにかく味噌も糞も溜め続けられるのである。
 政府などの強い力を持つ発言者が登場すれば、誤った情報は場合によっては一瞬にして否定される。しかし、情報自体は埃のように残り、その過去情報を答え合わせ的に現在から見ると、その当時の状態が綺麗にスクラップブックに閉じられているようにも見える。
 これは個人に対してだけでなく、様々な現象についても言える。
 いついつ戦争があった。台風が来た。楽しいことがあった。苦しいことがあった。各ポイントごとに大量の情報がストックされる。
 つまり、「いま」の情報を「いま」参考にするには不適であるが、答えが分かった状態で「過去の辞書」としての価値はとても高いのではないだろうか?

 

 人に対する評価も、国に対する評価も、技術に対する評価もしっかりと残り、暇人がいればまとめられて、検証することができる。
 逆に言ってしまえば、今の生活やこれからを判断する指標としてはほとんど役に立たない。金儲けをしようとしても、その正しい傾向分析がなく、結局、実地で有効情報を探さなくてはならず、急速に変化し続ける現状を判断する基準としてこれら過去の情報がほとんど価値を持たない。

 そのため、単純に「楽しむ」「文化的」という意味では生活を豊かにするものでありえるが、それ以上でもそれ以下にもならないものと考えるべきなのではないだろうか?

 

 情報自体に価値を見出して商売をしようというのが、今世紀の金融であり、IT戦略であるし、情報と物流をつなげるIOTも声高々に提唱されている。また、情報を集積し、より確かなAIを作ろうとする試みも盛んにおこなわれている。
 ただこれらの大上段に振りかぶったテーマ付けには情報自体に少しでも価値があるという前提がなければ、指向としての意味をなさないような気がする。
 果たして人の「思い」に情報としての価値や行動の動機づけとしての意味があるのかは不明であるが、少なくても現状では「思い」は無価値なゴミデータであるし、情報に対して、階層化や領域化して、デフラグしたうえでこういった戦略を組み立てなければ
足かせにすらなり、金の無駄になるような気がしてならない。

 いいかえると、NHKのビックデータ(笑)がクソの山になったように、「思い」を明確に取捨選択をして、大まかにでも、ランクを付けたり、単純なコピペを除去できなければ、全体の戦略として大きく判断を誤るのは火を見るよりも明らかである。

 

 

・・・ここで、ハタと「思い」が自分に向く。
自分のエロい絵は果たして本当にエロくなるのだろうか?
よくあるゴミデータの亜種ではないのか?
答えは「いま」の自分にはわからない。「未来」の誰か一人でも「エロいなぁ」と言ってもらえれば成功であり、それを信じて書くしかないなぁと怯えながら、また描く。

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