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まずい飯屋と映像作品

【オリジナル】「かくれんぼ」イラスト/ニッペルフ [pixiv]

↑暑い中でも子供は元気だけど熱中症を心配してしまった

 

 人の好みは人それぞれで、それこそ作品のレビューで酷評されているものでも、面白いものもあるし、お勧めの飯屋に行って、苦笑いして出てくることもある。
 なるべく万人に知られ、受ける商品を作ることが金儲けの基本であり、それを見たり、食べたり、遊んだりした後にお客に満足感を持たせて、次の商機に結び付けるのは商売をしていて当たり前のことである。
 日本の飲食業はおそらくその極致にあり、1000円出さずとも非常に質の高いものにありつけるのは我々にとって幸せ以外の何物でもないといつも思う。
 一方で、テレビ番組は同じようなものを繰り返し、映画に至っては正直に言って金返せという作品が多い。中学校の学芸会か?と思うほどのひどい出来のものまで普通にある。

 

 同じ日本というある程度閉じた領域において、どうしてここまで業種ごとに質の優劣がはっきりしてしまったのかつらつらと考えてみた。

 


 以前、京都に住んでいた時、周辺ではコンビニの出店、閉店が繰り返されたり、大学がたくさんあるということで、飲食系の出入りは非常に激しかったと思う。
 四条、先斗町まで出れば、ちょっと値段は張るがそれなりのものにありつけるが、ちょっと腹を満たすのには少し遠かったので、自然と出町柳駅周辺や百万遍界隈で食事を済ませることになった。
 そんな中で、店を回っているとビックリするほど分かりにくいところにうまい飯屋や飲み屋があった。
 京野菜を出したり、秘伝のたれを作ったり、地ビールをわざわざ遠くから契約したり、それぞれの店が小規模ながらすごく個性的な経営戦略を繰り広げていた。
 そういった店にはなんだかんだで鼻の利く客が集まって、常連客で店はいつも盛況になっていた。
 これはちょっと競争のある町では基本的に起こる淘汰で、値段と味、量がバランスしている店が自然と生き残る教科書的な市場原理主義の選択制なんだなぁなんて思った。

 しかし、町をめぐると同時に逆の意味でビックリすることもよくあった。例えば、駅前にある、あり得ないくらいまずい中華料理屋のことである。やる気もないし、汚いし、なおかつまずい。当然客もいないし、看板の電気もついていない。
 客がいなくともほとんど料理をせずとも、潰れることなく、ずっとそこにあり続けた。
 町のグルメ競争から言えば最底辺にあり、普通に考えればどうやっても数か月でつぶれるような状態だが、周りの店が少しずつ変わっていく中でも、不思議なことにその店はそこにあり続けた。
 結論から言えば、その中華料理屋は不動産経営していて、料理は片手間でやっているため潰れる心配がないということであった。つまり、他の店の激しい自由競争の枠からは外れて、客の取り合いや味の切磋琢磨に関係していないため、ビックリするほどまずい状態を維持し、営業を続けられたというわけである。
 京都の町にはこういったまずいというかあり得ない店が意外と長く続いている場合が多い。なんの肉かわからない焼き肉屋であったり、炊けていない米を出す定食屋なんかもあった。
 まぁそういった創作?系の飲食店は個人経営でほとんど趣味でやっていているので、利益を度外視しているのだろう。
 また、客がほとんど訪れることがなく、ただ店の構えがあるだけで、本当に存在していたのか今となっては自分の記憶を疑うような感じになる。

 

 普通、客の数に対して店の数が少なければ、多少まずくてもそれなりの儲けを出すことだろう。
 逆に、客の数に対して店の数が多ければ、ちょっとでも他より劣る点があればたちまち儲けはなくなるだろう。
 もちろん、競争の激化や安売り競争によって共倒れなんてケースもあるだろうが、需要と供給によってこういったものはコントロールされているはずである。
 しかし、京都の町ではこういった激しい競争と全くの無風の飲食店は併存していて、とても独特の風景を作っていた。おそらくそこには飯屋の競争とは別の利権がある程度絡んでいたのであろう。
 いずれにせよ、まずい飯屋それ自体は利益としても、趣味としても、何の意味もなくただあり続けていた。これはもうただなんとなく作って、なんとなく存在しているとしか言えないような遺跡のような状態である。


 このような京都のまずい飯屋状態がテレビや映画などの映像関係についても徐々に広がりつつあるのではないかと思う。
 つまり、映画を作ったり、上映する権利は持っているが、それによって利益であるとか、何か先進的な試みをやってやろうという欲もなく、ただ作り、ただ放映しているのかもしれないということである。そこには「存在すること」が第一で、別に美しかったり面白いものを作る必要性がない状態が出来上がっているのではないだろうか?
 当然のことであるが、映像の作成や放映は利益を生むために行うはずである。映画の場合もちろんお客からお金を取り、民放はスポンサーから広告料をいただくのだからそれなりのものを出さなければならない。
 しかし、いくつかの映画やテレビ番組においては全くそれがあてはまらないものがある。作ったはいいが、全く宣伝をせず、全国上映している映画館にはほとんど観客がいなかったり、視聴率が取れないのにただ漫然と放映されている番組がある。
 競争とは全く別世界の例として、映画においては以前宗教団体が作ったアニメ映画を見た際、200席以上入る箱で観客が自分一人ということを経験したことがある。だだっ広い空間の中で大スクリーンで教祖が宇宙を開放するシーンをたった一人に向けて作っている。壮大な無駄である。

 残念なことに、これに近い現象が最近の邦画に増えてきているように見える。テレビにしてもBSでは本当に誰が見るんだ?というような通信販売の番組が多くのチャンネルで営々と流れ続けている。 
 芸能界においても金主や権力者が強く押す役者のため映画を作ったり、枠を売って番組内容の精査をせず放映している状態は全く客の方を向いていない。かといって、それこそ自己満足できる作品にしようとしっかり金をかけたり、設備投資をしている形跡も観られない。

 新規放送局や新しい映像集団が非常にできにくい中で、スポンサーが減る中、強力な利権化と停滞した様式が型にはまったようにも見える。そのような競争がない状態において、強い意志や意図をもって作成されているものがどんどん減っているのはしょうがないのかもしれない。

 ただ、これが広がる速度や割合の増加はちょっとヤバいと思う。

 

 もちろんそんな状態に落ち込んでいっても、面白いものを作ってやろう!という気概にあふれる作品がまだまだある。
 ただ、情報化が進む現実において、そういった作品群は市場競争として海外の大金を積んだ大作や秀作と比べられて、厳しい評価に晒されて苦戦するのだろう。予算のない中で厳しいんだろうなと、そういった作品を見ていると感じてしまう。

 

 このままいけば、まずい飯屋だらけになるのは勘弁してもらいたいし、頑張っている映像作品には応援や課金したいと思うが、HBOのWestWorldやBBCのSharlockなんかを見てしまうとどうしても手が鈍ってしまう。
 というかちょっと内容を流しただけで、見る気が一気になくなってしまうこともある。結局、うだうだ言っても、自分もわがままな欲望に忠実なただの消費者なのだ。


結論

鋼の錬金術師のコスプレ実写化をするのは止めろ!

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